おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●『トロッコ』と西武球場と山田うどんのかかし(2016年2月22日)

えー、芥川龍之介の『トロッコ』といえば、ブンガクなんぞ知らねえよ、って向きの方でも教科書で読んだことがおありではないかと思います。わたくしも国語の教材になるので毎年子供らに教えております。

近所でやっている鉄道敷設工事の様子を見ていた良平くんは、作業員たちが押している作業用のトロッコが押してみたくてたまらない。ある日、「お前も押してみるか」と言われて大喜びの良平くんは、一緒になってトロッコを押した。楽しくてしょうがない。夢中になってトロッコを押して、気づくとものすごく遠くまで来た。その充実感に浸っていると作業員が「おう、今日は俺たちはこっちで泊まりだから、坊は帰りな」と言われる。良平くんは「帰る」ということをまったく考えずに夢中になってトロッコを押していた。日は暮れる、道は遠い。心細い気持ちで行きで見た風景とまったく違う、日の傾いたトロッコの線路を夢中で走っていく…良平くんが自宅の前に着いた時、おもわずわっと泣き出した…。

この作品、人生の比喩なんだろうねえ…なんつってワケ知り顏で言いたいところなのだけれども、実はおれはこの作品、幼いころまったく同じような経験をしているのです。

まあ、昔からの知人、およびこちらの書き込みをお読みの方なら薄々察していると思うのですが、自分は放浪癖のようなものがありまして…静岡競輪で当たったから伊勢神宮行くだの、玉野競輪で当てて足摺岬に行くだの、「旅が好き」というよりは放浪癖の症状でして。

これは幼い頃から一貫して変わらないところで、母親曰く「幼稚園の頃、仕事から帰ってきてアンタがいないと、大抵、近所のYさんの家の庭で鯉を見てたのよねえ」とのこと(笑)。近所にお金持の家があって、なぜかおれは可愛がられていて、顔パスで庭に入って行って見てたらしい。おれ、暗いよなあ…と思いつつ、映画館や競輪場にいるときのおれは多分このときの気分なんじゃねえかと思ったりもする。三つ子の魂、なんとやら。

その症状なのか知らないんだけれども、小学校3〜4年あたりのおれは、週末というと西武球場に通っていたのです。あんまりこういうことを書くのはどうかと思うけれど、そのころ両親が離婚直後で(笑)なにやら「ここではないどこかへ」感といいますか、家に居づらい感じがあったのかなんなのか、週末っていうと店に行ってオフクロにお金もらって、大宮駅西口から本川越行きのバスに乗って、西武球場へ。西武ファンじゃなかったんだけど、バスに乗るのが楽しかったような気がする。

確か、1984年だったと思う。西武の独走でほぼ優勝が決まっていたシーズンの秋。小学校4年生で、オヤジが出て行ってオフクロと母子家庭を始めたころだった。西武球場で西武対ロッテがやっていた9月の連休の週末。

日曜日に村田兆治が先発するだろうということで、1000円札を1枚もらって、例によって大宮商工会館の前のバス停から所沢行きのバスに乗って。確か先発は村田兆治高橋直樹だったと思う。西武が勝って、西武球場の芝生席は満員だったことは覚えている。「完全燃焼石毛」と書かれた旗が翻っていたのも覚えている。そして、コーラのでかいやつを飲んだのを覚えている。ほら、牛乳パックみてえなやつ。

で、これがいけなかった。あのコーラがいけなかった。
西武球場前から本川越に出たところで、バスに乗っても電車に乗っても、大宮までのお金が足りない。気づいたときの衝撃ときたら、もうこの世の終わりのような気分になった。

本川越まで来て、オフクロに電話をすると「毎週毎週遊んでるからそういうことになるんでしょ!自分で考えなさい!」と怒られた。今にして思えばオフクロもタイガイだ…その時「なんだよ!」って思ったが、おれなりに考えた。

「歩いて帰ろう」

本川越から大宮駅西口まで行くバスがあるから、「大宮駅西口行き」ってかいてあるバス停を辿っていけば着くだろう…と、我ながら不器用ながら利発なアイディアを思い立って、本川越駅のバス停から歩き始めた。行きはバスで通った道の逆を行けばいい…何度も通ってるからバス停の名前を覚えていたせいもあって、首尾よく歩いていった。何だろうね、ちょっと意地があったんだよね。「オフクロに絶対目にもの見せてやる」っていうような。

途中、川越の喜多院あたりでオフクロに公衆電話から電話した。「今、どうしてるの?」「歩いてる」「歩いてる?」「大宮まで歩いて帰る!」「アンタは本当にバカだねえ…駅まで来てお母さんが迎えに行けばいいでしょ?」と半笑いで言う。「歩いて帰る!」と言って電話をガシャンと切った。しかし、今どき「電話をガシャンと切る」なんてないねえ…

電話を切って、歩き出す。気づくと心細さで辛くなっていた。日は傾く、気温は下がる、誰が住んでるのかわからないところを歩く。そして、大宮と川越の境にかかる上江橋が見えて来る。「やった、川越を脱出した…」と思って歩き出す。

みなさん、長い橋やトンネルの歩道を一人歩いたことがありますか?(笑)。ましてや日も暮れて、真っ暗で、橋の上から見えるのは河川敷だからただの闇。まさに『トロッコ』の「行きとは風景が違う」っていう。あの風景はいまだに忘れられないってもんです。本当に恐ろしかった。もう、おれはなんてことをしちまったんだ、なんてバカなことをしちまったんだと。あの時の気持ちはいまだに覚えている。

そして、怖い怖い上江橋を渡りきって、目の前に山田うどんの黄色い看板が夜空に回転していたのを鮮明に覚えている。そのふもとには店舗があって、明かりがあった。その時の安心感ときたら!(笑)

今となっての解釈だけど、「ああ、人がいる…おれは一人じゃない…」って思ったわけです。1kmを超える、トラックが轟音を立てて走る漆黒の闇に包まれた長い橋を一人歩く絶対の孤独…そこから救われたような、そんな気分でした。

大宮市に入ったからもう平気だ!と思い直して、涙を拭いて歩き出して、新大宮バイパスが見えてきた時、ポンポンと肩を叩かれた。小さい頃、昼間おれを預かってくれたスズキさんのおばちゃんの息子、ヒロユキ兄ちゃんだった。「オバさんに言われて、探しに来た。車に乗りな…」と。ヤンキーで、カーマニアで、自動車整備工だった兄ちゃんは、16号を歩いていることを察知して、新大宮バイパスのところで待ち構えていたんだろうと思う。

ヒロユキ兄ちゃんの車で大門町の家の前で降ろされた。家に帰ると、当然、オフクロに怒られた。おれは「だって、自分で考えろって言ったから…」と言って、ものすごい勢いで泣いた。

連休だった。翌日足がものすごいことになっていた。遊びに来た幼馴染のオサムと、野球をやらずに『未来少年コナン』を見たことを覚えている。

 

【2020年6月の追記】

一生懸命書いたワリにはあまり反響がなかった。