おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●伊藤彰彦『映画の奈落 北陸代理戦争事件』(2015年11月12日)

 映画というのは総合芸術というか、「群像芸術」だと思うのですよ。監督、脚本、撮影、照明、大道具、小道具、主役、準主役、ヒロイン、脱ぎ役、脇役、殺陣師から、仕出しの弁当屋、運転手まで、関わる人の数がケタ違いに多い。

さらにこの東映実録ヤクザ映画の特殊性というのは、モデルになるヤクザがいる。しかも、生きてる。『仁義なき戦い』も基本はそうだし、『山口組三代目』『日本暴力列島/京阪神殺しの軍団』…とまあ全て、その時生きてる人をそのまま描いてる。つまり「数多い作り手のそれぞれの現実」と「実際にモデルになった人々の現実」の合間にこの作品群ってものがあると。

エンタメというものは「非現実(フィクション/ファンタジー)」のものということでなんとなーく話はまとまってるが、この一連の東映実録ヤクザ映画というのは、そこらへんが曖昧モコとしているというか「虚実の皮膜」の「実」が7割「虚」が3割みたいなバランス感覚で作られる感じ。でも、これだけだったら戦争映画や伝記映画は虚実のバランスは違えどそうなんだ。

けれど、この時期の東映の特殊性っていうのは、その題材が反社会的存在であること以上に、それが同時代であり、なおかつ量産してたというところじゃないかと思う。Vシネマに至るまで「ヤクザ映画」という枠組みが当たり前の世界で生きてるから案外マヒしてるのかもしれないが、これってそうとう特殊なジャンルだと思うのです。

存命の人物のことがドキュメンタリーじゃなくて、伝記映画になるなんてのはあんまり民主主義国家のやるこっちゃないし、歴史上の人物だったら叙事詩になるけど、『山口組三代目』なんてヤクザの親分だもんね。政治家とかじゃねえんだもの。

おれなんぞは後追いで乱れ打ちのようにそれらを見て喜んでるだけだけど、当時、オンタイムで、田岡組長が現役の時にそれがヒットしちゃうっていうんだから面白い時代と国民性だなと思う。(2015年11月12日)

 

映画の奈落: 北陸代理戦争事件

映画の奈落: 北陸代理戦争事件

  • 作者:伊藤彰彦
  • 発売日: 2014/06/02
  • メディア: 単行本
 

 

この本は簡単に言うと『北陸代理戦争』という深作欣二最後のヤクザ映画があって、その映画が実際の抗争を誘発してしまった件、ということをレポートしたもの。ただこの作品には二つのリアルなシンクロがあって、『仁義なき戦い』の後を受けてシナリオを担当した高田宏治は「仁義」のシナリオライター笠原和夫に戦いを挑み、その高田がモデルにして惚れ込んだ北陸の川内組の川内組長は神戸の山口組に戦いを挑んでいた(実際はもっと複雑なんだけど割愛)。フィクションを構築する側と、リアルの側の二人が同じような心持ちでこの作品にのめりこんでいき、その心持ちをフィルムに収めた結果、神戸の怒りを買い…という。

そこで、ここで映画というものの本質らしきものに帰ると、映画の特殊性は「記録」にあると思う。音楽、落語、小説、演劇などと映画が決定的に違うのは、映画は「記録すること」それ自体が意味を持っている。落語も音楽も「記録することもある」けど、記録を前提としていない(でも、昨今変わってきてるのかな)。映画というフィルムに記録してしまうことの重さ、というのがこの話のキモなんじゃないかと思う。

でもまあ、冷静に考えてみるとあれほど生々しい実録映画を量産しておいて、こういう事件が無い方が逆に奇跡なのかもしれない。それだけ、あの東映実録路線というのは奇跡的に面白いジャンルだとおれは思うのです。

ということで、前にゲオで借りて乱れ視聴した中の1本で、砂浜に首まで埋められた西村晃の周りを車で走って脅すシーンばかり印象的だった『北陸代理戦争』を、改めて見直そうと思う。

 

【2020年の追記】

その後文庫になったが、なんにせよ傑作であることは間違いない。この作品ほど映画や諸芸術の持つ「魔」を描いたものはなかなかないだろうと思う。

 

映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件 (講談社+α文庫)