おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●毒蝮三太夫の朗読『ルドルフとイッパイアッテナ』(2013年4月13日)

教育テレビでむかしやってた毒蝮三太夫の朗読による児童文学『ルドルフとイッパイアッテナ』。

 


ルドルフとイッパイアッテナ①

 

岐阜でシシャモを盗んで逃げこんだトラックに運ばれて小岩にやってきた黒猫「ルドルフ」が、文字の読み書きができる東京・小岩のボス猫「イッパイアッテナ」(変換面倒なので以下「ボス猫」)と出会い、文字の読み書きをおぼえながら野良ネコとして成長していく物語。
児童文学の傑作&ロングセラーなのだそうだが、これが実にウィットに富んでいてなおかつどこかブルージーで(また続編がいいんだ…)、大人の読書にも堪えうる作品なので、ぜひともユーチューブなどでご覧ください(映画でいうと『ボルト』に似てる気がする)。

この作品の中でキーワードになっているのが「教養」という言葉。
文字の読み書きができるボス猫が、何かと言うと「おれみたいに教養のあるネコはなあ…」とか「教養のあるネコになれ」的なことをルドルフに言う。その教養の元として文字の読み書きというものがあって、ボスに心酔するルドルフ君は「教養のあるネコ」になるために文字を覚えていく。
で、文字の読み書きを覚えたルドルフが、仲間の飼い猫のブッチーに対して「文字の読み書きができない」ことをバカにすると、ボスが「ちょっと何かができるようになったからって、できない奴をバカにするのは教養のあるネコのやるこっちゃねえ」と言うセリフが非常に印象的なんすな。

これ、非常に大事なことを教えてるとおれは思うわけです。
教養、って言葉が「知識」や「情報」とニュアンスが違うのは、教養って言うのはいい意味で受動的なものだ、ってことなんだと思うのです。つまり、教養っていうのは自分の中に身につけていくものであって、自分の外に向かって発揮するものじゃないってこと。徹頭徹尾、自分のためのものであるべきものなんだろうと。いい意味で。

映画を見る。音楽を聴く。サッカーを見る。本を読む。テレビを見る。競輪を見る。なんでもいいんだけど、そういうものに触れるときに、ただ触れるんじゃなくて、教養を持っていることで見えないものが見えるしより深く楽しめる。
たとえば聖書のことを「教養」として持っていれば梶原一騎の作品はより深く楽しめるし、村上義弘の過去のレースを知っていれば予想は立てやすい。『アニー・ホール』を見ておけば『500日のサマー』も『モテキ』も見え方が変わる。宇宙論を知ってると数学が面白くなる、といった。
で、そこでポイントになるのは「それを知ってるからって、知らない奴をバカにしちゃいけねえ」ってこと。少なくとも、それを知っていることは偉くもなんともない。なぜならば、その教養を身につけたのは自分であって、自分のためにしたことだから。他人と差をつけるために身につけるものは「教養」ではない。

たとえば外国語の習得。英語ができる人を「教養があるからねえ」とは言わない。なぜならば、語学というのはあくまで外とのつながりのためにあるもので、基本的に外に向いたものだから。この場合は、できる人とできない人の差は歴然。語学と言うのは技術でもあるから、バカにするかどうかはともかく、他人との差をつけうることができるものではある。ちなみにおれは英語がマジで苦手。

話を作品に戻す。
ボス猫が飼い犬のドラゴンと戦って勝ったという小岩のネコたちに語り継がれる伝説があって、その時「てめえ今度調子こいたら耳かじってドラえもんみてーにしてやるぞ!」かなんかの啖呵を切った。
それを知ったルドルフくんがシビれて、ボス猫の前でマネをした。するとボス猫がルドルフ君をぶっとばすんだね。「そんな言葉はめったやたらに使うんじゃねえ!」って。
彼ら猫たちが学ぶ「人間の言葉」というのが外国語と違うのは、人間と会話するためのものではなくて、「おれの故郷は岐阜という街なんだ」とか「あのトリの名前はスズメというのか」とか、あくまで自分が何かの情報を受け取って豊かになるためにあるものとしているのだね。タンカを切るっていうのは「教養」ではないのだ、とボス猫は言ってるわけだ。深いね!

教養っていうのは、まさにそれなんだろうとおれは思うワケですよ。教養はそれ自体で他者に何かをしかけるもんじゃなくて、他者から何かを受け取るために得るもの。娯楽とか勉強だけじゃなくて、もっと単純にして重要なレベルで、人の話を聴き人に話をするということ。

例え話ばかりで恐縮だけど、教養っていうのはプロレスラーにおける筋肉なんだろうと思う。プロレスはご存知の通り「底が丸見えの底なし沼」なので、まぁ、何だ、言いたくはないが「決まっている」ワケだ。でも、レスラーは相手の技を受けなきゃいけないし、受けなかったらプロレスにはならない。だから上野毛の道場などで鬼軍曹山本小鉄のもとで筋トレをする。技を受ける筋肉がなきゃ試合にならないし、技を決めるにもその迫力を裏付けるものは筋力しかないから。
技の応酬を「会話」や「コミュニケーション」あるいは「知的生産」とするならば、その土台となる筋肉こそが「教養」なのだと思う。

最後の最後にちょいと毒づかせてもらうと、いわゆるアスぺががったオタクのような人や、おれの仕事の教員志望の若い衆などを見ていると、知的筋肉である「教養」を披露するだけでリングに上がってるから、ナンなのよね。例えて言えば、それはボディビルダーなんであって、レスラーや格闘家ではないから、非常に滑稽に見える。客は筋肉を見に来てるんじゃないし、筋肉を見せ合うだけでは何の生産もない。その筋肉に裏打ちされた技がなきゃね…ってエラそうですんません。

ま、とにかく『ルドルフとイッパイアッテナ』をマムちゃんの素晴らしい朗読で聴いてみてください。

って、まさにマムちゃんこそまさに「おいババア!死にぞこないが!」でおなじみ毒舌の人なんだけど、「ババアとは言うけど、クソババアとは絶対に言わない」っていうあの愛すべき毒舌イズムこそ「教養」のなせる技なんだよなあ。彼にこの作品を読ませよう、と考えたスタッフの人は本当に「教養」のある人だと思う。

 

 

【2020年の追記】
毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」 は毎日の放送ではなくなり、『ルドルフとイッパイアッテナ』は3Dアニメの映画になっていたが見ていない。