おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●今夜もどこかで『スナック幸』はやっている(2017年4月9日)

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おれの上司でありタッグパートナーのKさんは梶原信者でありプロレス者なので、いろいろ不平不満はあれど根本の部分で信用しているのだが(そうでなかったらとっくに辞めてらあ)、彼に「この休みに泪橋に行ってきましたよ」って話をしながら写真を見せたら、サチの立て看の写真で止めて、「サチ、いいよなあ…」と遠い目をし出して、「ああやっぱり信用できるな…」と思った。

「陽子、紀子、サチの三人の中で、ジョーのことを本当に愛しているのは誰か?」というこの問題は、おれとトモヤがかれこれ20年、それこそ『トレインスポッティング』の第1作が劇場公開されてる頃からずーーーーーーーっと、性懲りも無く語っている哲学的大命題なのだが(おれが話を振っているだけだが)、おれらのような文科系的内向性のない中畑清みたいなKさんも「それは、やっぱりサチだと思うなあ」と即答した。

葉子はボクサーとしてのジョーを愛した。紀子は人間としてのジョーを愛した。この結論を得た段階で「紀子最高じゃねえかバッキャロー!」と葉子を愛するトモヤにゴロをまいたのは20台後半であったが、その後の虚空遍歴を経て、「紀子?はぁ?バカやろう、サチに決まってんだろ!」と思ったのは30台になって、ガキどもの相手をするようになってからであります。そして、『トレインスポッティング2』が公開される2017年現在、この結論が揺らぐことはもうないだろう。酒の量にもよるがw

サチがオデンを万引きしたところで鬼姫会に小突き回されているところをジョーに助けられることから『あしたのジョー』は始まる。この段階で、サチというのがいかにこの物語にとって大事な存在かがわかるというものだが、あの頃の僕らといったら、そういうことに気づかずに、凛とした自立した女との「新しい関係」に憧れたり、柔和な女に癒されたりしていたのだと。

そうじゃねえんだよな。サチにとっての「男」とはどういうものだったか。愛する父ちゃんは中風で寝たきり、街を歩けばロクでもない不良ばかり。サチにとって男とは、「優しいけど弱い」ものか、「強いけど怖い」のどちらかでしかなかった。

そんな荒野の中で、サチにとってジョーは「優しくて強い」初めての男だったんだ、と気づいてから、この物語が俄然色鮮やかに見えてきたという話なのです。それにしても梶原一騎、男性社会の権化のような作家のようでいて、実は女性というものを非常に尊重する作家なのだよな。

「優しくて強い」男、ジョーに出会ったサチの喜びはいかばかりだっただろうか、と思う。これだけで人生を乗り切れるほどの喜びだったんじゃなかろうか。あの絶望しかないドヤ街に、優しくて強い男がやってきたことが、サチにとっていかに希望となったか。そしてその希望が、ドヤ街の連中に伝播していくそのサマはまるで新約聖書のようだ…この辺の小難しい考察はまた別に。ともあれ、「希望」なんて言葉はおいそれと使うことが難しい言葉ではあるけれど、サチにとってのジョーは、本当に「希望」だったんだろうと思う。

ただ、それだけで終わらないのがこの作品のものすごいところであります。

ジョーがハリマオ戦で「野生のカン」を取り戻した後、世界戦に向けてトレーニングを続けている時、サチが記者に向かってポツリと言うセリフ。

「でも…最近のジョー兄ぃ…ちょっと、怖いや…」

原作だと、このセリフのあとサチはでてこない。サチにとって「強いけど優しい」男だったジョーが、やはり、「強いけど怖い」男になってしまったんだよね…もうね…思い出しただけで泣くっつんだよバカやろう…。このサチの決別のセリフに比べたら、葉子の「矢吹くん、好きなの!」だの、紀子の「あたし…ついていけそうにない…」なんてセリフはヌルいってもんです。

葉子は「ボクサー」として、紀子は「人間」としてジョーを見ていた。でも、性的な意味とは別に(言わなくてよい)、「男」としてジョーを見ていたのはサチだとおれは思うんだ。「愛」の担当は葉子だし、「情」は紀子なのかもしれない。でも「恋」はサチなんだよな。

おれのようなロクデナシ男が何を書いたとて唇寒しって話かもしれないけれど、恋とはある意味で「希望」そのものであって、別に男女の話でなく、音楽に恋して映画に恋してカメラに恋して競輪に恋したっていい。それが何がしかの「希望」であれば、それでいい。

絶望の中にあっても、それさえあれば生きていけるようなもの、それにしかすがることができないようなもの、それがサチにとってのジョーだった。そう考えると、『あしたのジョー』はジョーとサチと、そして段平の「希望」の物語なのだとおれは思うのです。

 

だからおれは繰り返す。

サチが経営するスナックが南千住のどこかに必ずあると。

もしかするとそれはサイゼリヤかもしれないし、魚民かもしれない。でも、この世は星の数ほどのサチと、そこに集うドヤ街のチビ連でできているのだと。

きっと今夜も、地球上に山ほどある「サチの店」では、「ジョー兄い」の話で酒を飲んでいるハズだ。(2017年4月9日)

 

【2020年6月の追記】 我ながらよく書けたし、いい写真だと思う。そして、何年経っても『スナック幸(さち)』は南千住のどこかにあると信じているし、宇宙にはファンクの星があると信じている。