おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●「美人画」と「萌え絵」(2013年10月3日)

f:id:take-zo:20200623152147j:plain

 

さっき、弓月光デザインのガールズ競輪ユニフォームの女イラストがいいと写真をシェアしたんだけれども、いわゆるアニメ好きの人の「二次元萌え」ってヤツとか、「萌え絵」ってのは相変わらず分からないでいる。

まあ何しろ、まともにアニメと向き合ったのが30過ぎからなので、「萌え」な感性を受けやすい時期にそういうものを知らなかった、というのは大きいのかもしれない。とはいえおれだって普通の男なので、美人の写真や絵は好きだ(でもまあ、昔から「アイドルの写真集」とかを買う意味がわからない、というおれの中での大きな疑問はあるのだが)。

というか、なんとも形容し難いのだけれども、一番メジャーどこで言えば『エヴァ』や『まどマギ』なんか見てると、それが女性というよりも「デザイン」に見えてしまうというか、絵という感じがしないんですな。綾波レイでも暁美ほむらでも、美少女というよりも「キャッチーなデザイン」として見てしまうような錯覚に陥る。
だからといって悪いというワケでは全然なくて、デザインとして可愛いし、美しいからなんんの文句もないのだが、まさに「キャラクター」なんだと思う感じで、たとえばバイクや自転車のデザインの美しさを見るようなのと近い。美少女という「機能美」のデザインとしてスゴくいいと思う。

前に職場の若い衆にすすめられた『侵略イカ娘』っていう、1枚だけ見て「見てらんねえ」と思ったアニメがあったのだが、それでも主人公のイカの化身である美少女(って何なんだよ…)の造形には少し感心して、イカをこういう風に擬人化するデザインはセンスあんな、と思った。やっぱりデザインなんだろうと思う。

一方で、さっきの弓月光のヤツなんかは文字通りの意味での「美人画」を見るような感じで、「魅力的な女性の絵」であり「いい女だな」であると認識するので、たとえばiPhoneのバックグラウンド画像などにしてもいいかなと思う…ちょっと思い出したのは山本直樹の描く女で、山本直樹の描く女性というのはヤケに生々しい。浮世絵の月岡芳年の描く残酷に殺される女みたいな感じで、「美人画」というよりも「責め絵」のような感じだろうか。

弓月光山本直樹あるいは江口寿史なんかの「美人画」の巨匠の絵のタッチを考えてみると、顔以上に体のラインを描くのがスゴく丁寧だと思うのですね。さっきのガールズ競輪の絵もそうだけど、お腹から下のラインなんかの精密さってのがスゴい。レーサーパンツのシワの位置と入り方が、肉体との物理的な作用で入ってるな、ってのがわかる。
つまりですね、「線」がちゃんと生きてるということなんじゃないか。
実際の人間を見た時に、「線」は認識しされない。顔の輪郭をスミの線で認識することはない。ということは、絵ならではの表現はこの「線」にあるのではないかとおもうのであります。

一方で、「萌え絵」というのを色々見直してみると、この輪郭線(特に顔の)があまりハッキリしてない場合が多い気がする。だけど、黒髪で、目が大きくて、口は小さくて、胸は大きくて、ウエストは細くて、脚は長くて、というような美少女の「機能美」だけはキチンと描かれると。なるほどこれを思想家の東浩紀(たまにスゲえいいこと言うデブ)は「動物化」だとか「データベース化」だとか言っていたのかと今さら感じたりするのだが、そういう機能美に対して「萌え(欲情)」することはあったっておかしくはないよな、という理解はする段階までは来た。

ところで、もうすぐ劇場版が公開されるが、『まどマギ』について言えば、おれは見ているうちに登場人物が「美少女」であることをまったく考えずに見て盛り上がっていた。物語の推進力と、キャラではなく絵コンテが見事で、構成が巧いこともあり、それこそ東映ヤクザ映画を見るような感じで見てしまった。クライマックスでほむらが「ワルプルギスの夜」と戦うシーンを「高倉健だねえ、道行きだねえ、いよっ!ほむら!」などと昭和残侠伝を見るように(これがまた不思議なもんで、藤純子の『緋牡丹博徒』や梶芽衣子の『女囚さそり』『修羅雪姫』のような「美少女戦士」ものの傑作もあるというのに、『まどマギ』の場合は高倉健だったんだよな、おれは)。

しかし…実際これについてはtkskくんとの話の中からかなり指摘を受けたんだが…冷静になってみれば、あそこに出て来る子らは「美少女」なのであって、美少女が戦う物語なのだということを横においてしまうと、それが自分にとって大事な主題であるかどうかはさておき、某かの主題を置き去りにしてしまう可能性を孕んでしまう。やはりあの作品は戦っているのが女性であるということは大事なことなのであって、そこを「ああ、やっぱり髪がピンクの子とか出て来るんだね…」という処理をして、ストーリーの妙だけを見ているというのは片手落ちとまでは言わないまでも、何かの手がかりを見落としてしまうことになるのかなあ、と思う。

相変わらず話がとっちらかって長くなってしまったけれど、何にせよ作品であることは確かなのだから、いわゆる「萌え絵」であったとしても、年寄りのグチのように「こんなもん見て喜んでてしょうがねえな」などと言わず、ちゃんと見ないとイケナイなと思う。

まあ、それはアニメに限った話ではなく「古き名作にあったオフビートな肌合いが今のものにはない」だとか「今の音楽には情念がない」だとか「人の手触りがない」だとか「悲しみを描いていない」といったようなことを言わず、今のものには今の形で、軽く見えるものは軽い表現で、それぞれ何かを伝えようとしているのだから、軽々に今のものを「昔の○○に比べたら」式に言うのは慎重にしないとイカンね、と思うワケです。

ま、そもそも「昔の○○」だって、その前の人にはそんな風に言われてたんじゃないか、と思うんだよな。(2013年10月3日)

 

【2020年6月追記】もはや、ガールズ競輪は当たり前の風景になった。買わないけど。