おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

■落語批評について考える

落語ライブラリを掘り返しているのだが、21世紀に書かれたもので言うと、堀井憲一郎『落語論』は、少々クセのある文体なれど、近年読んだ落語に関する「批評」本の中で一番だと思う。大友浩花は志ん朝』もいい。

ただ、やっぱり「落語評論」というものは成立しにくいっすな。町山さん式映画評論作法を用いると、落語の場合その人の人生すべてが入ってくるから、結局人物評論あるいは評伝の形を取るのが精いっぱいで、落語論は難しく、落語家論として語るより他ない。他ないのだが、困ったことに落語は古典があって、それが噺家によって微妙に解釈を変えて演じられるものだから、その差異をどうしても「批評的」に語れてしまうかのような錯覚を与えてしまう。

でもその差異というのは、噺家そのものの人間性に依ってしまうし、その高座の状況、体調、会場の雰囲気、客などに依ってしまうので、要するに「キリがない」んだね。

となると、じゃあ吉田秀和のクラシック批評とかはどうなるのか。

特にピアニストの批評なんかはどうなっているのか。

おれは落語とソロのピアノってのは似てると思っていて、ピアニストが古典をどう解釈しているか、さらには体調や骨格や客やいろんな要素があり過ぎてとんでもない芸事だなぁと思うのであります。ただ、ピアノは落語のように身体性をともないつつも、スコアという言語が落語よりも圧倒的に強い。落語の難しさは、古典という言語が、実は思いのほか弱いというところではなかろうか。