おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

広瀬和生『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)

それにしても、新書のタイトルってのは何でもかんでも「なぜ」を入れるよね。「なぜ」って言うからには読者がそれ相応の経験をしてないといけないと思うのですね。
たとえば「さおだけ屋はなぜ潰れないか」なら「そういやそうだな」になるけども、「落語評論はなぜ役に立たないのか」と言われて、「そういや安藤鶴夫の『落語鑑賞』はイマイチ面白くなかったな」と思う人が、おれ以外にどの位いるのだろうか。つーか、そもそも落語評論に普遍性があるのか?
というか、おれが落語評論に触れた覚えがあまりない。多分、談志だけだ。矢野誠一なんかはエッセイに近いし。

でも、ちょっと考えてみると、この普遍性のなさは既出の落語評論の攻撃性のなさに起因していて、その理由がダーッと見事に整理されているのが本書であると言える。
町山智浩の映画評論と同じく、「これから落語に触れる人にその面白さを上手に伝えるのが役目」というのは同意(というか、モノを書く人間はそれが当たり前っちゃぁ当たり前だ)。

おれが思うに、落語が難しいのは、観客や会場によって大きく左右されてしまう芸であることで、作品ではないということで、結局落語家のパーソナリティしか語り様がないのではないかと思うことがあるのだが、筆者はそれをスポーツライターがやるように引き出すのも仕事、と結論づける。

まぁ、概ね同意なのだけれど、結局最初に戻ってしまう。「落語評論って、そこまで必要か?」という。いいモノがあればそりゃ読みたいが、なくても別におれは困らないかなぁ、と正直なところ思っている。あえていうなら、堀井憲一郎や読売の長井記者?みたいな、データをとってまとめたものがあればいいと思う。わかりやすくいえば、ブブカのその月のアイドルイベントのまとめレポートみたいなものです。