おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

快楽亭ブラック『立川談志の正体』

昨年の死去以来、ややバブル的様相を呈していた談志がらみの書籍や文章の中で、とりあえず自分が触れたものの範囲で言えば一番「ほんとうの談志」を描いていると思いました。ほんとうの談志、というのは、カネてからおれが申し上げている通り、談志の「優しく弱い部分」をちゃんと描いているというところだ。とりわけ、「弱い」部分を。他の文章にない視点として、「落語家」でなく「師匠」でなく「父」でなく「トリックスター」でもない、「オッサン」としての立川談志を中心に書いているということ。まさに「立川談志の正体」なのだ(ちなみにこのタイトルの由来は、談志と同時に真打ちになった、当時珍しかった大卒の噺家柳家つばめの新作『佐藤栄作の正体』だ)。快楽亭ブラック自身が諸般の事情で立川流を自主退会していることもあり、「オッサン」談志を心置きなく書いている。談志のエピソードが神話的に描かれがちなことに不満だったおれとしては、大変面白かった。
ただ、師弟関係が生活の中にある人に取っては、ちょっと引くかもしれない。

落語家・立川談志についてもブラック師は冷静で、人間・立川談志を横糸にしているから「金に汚いヤツの噺」と「内面が屈折しているヤツの噺」はウマい、と大変明快に判断基準を示している。前者は『黄金餅』『富久』、後者は『らくだ』。これを読んで談志の志ん生評がまったく同じ筆致で書かれていることを思い出した。金の噺、貧乏の噺、廓噺はウマいが、人情話はヒドいと。その理由は「了見が違う」。ブラック師はこの「了見」を「オッサン」立川談志にあてはめてみて、明快に批評する。ゆえに、『芝浜』や『文七元結』はヒドいと。

さてここからはおれの見解。おれは談志の『芝浜』も『文七』も好きだ。この二つ、玄人筋に近い人ほど批判的だったりもする。素人のおれから言わせれば、談志の分解によるこの2席は、実は談志の言う「イリュージョン」感の一つの形だと思っているのでありんす。それは、『芝浜』のおかみさんと『文七』の長兵衛という、通俗的には「人情」の代表と描かれていたキャラを、「混乱し、血迷ったヤツ」としたことで、談志は筋を通したんじゃないかと思うから。

世間一般での「人情」を、ナンダカワカラナイ状態になったヤツの血迷った行動に置き換えることで挑んだ(そして「照れ」を解消した)といえるのではないか。つまり、広義でいう「狂気」。特に『文七』、てめえの娘を女郎にした金をくれてやる、なんて正気の沙汰じゃない。だから談志は、文七に五十両やるシーンで、金を渡すか逡巡する長兵衛に「誰か助けてくれー!」と叫ばせる。あれは狂気が迫っているときの声だ。やってることは善行なのかもしれないが、どう考えても狂っている(『芝浜』のおかみさんもそうだが、彼女の場合はちょっと長くなるからヤメとく。まぁ、バレンタインにふさわしいテーマではあるのだが…照れくさいので)。

ブラック師の書く「オッサン」談志は、ある程度見てる人には判っていたこととも言える。でも、そういう「オッサン」談志の了見は、人情噺でもブレていないんじゃないか、とおれは思っております。甘いかな、やっぱり。おれも「信者」なのかね。