おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

『魔法少女まどか☆マギカ』を語る。その①「マミ」編

夜も昼もわからぬ状態のママMacに向かい、おのれの非力さを感じながらこのくらいの時間になって、セブンのワイン飲みながら落語だの映画だの『まどか☆マギカ』だのについて書くという日々が当分続きそうなんで許して欲しい。

オレの中では『ガンバの冒険』『あしたのジョー』と共に、「これについてアイツに振るとウルセエことになる、ってお前ら思ってるだろどうせ」作品になりました。はいはい、うるさいよ。どうせうるさいよ。だから書くよ。

第3話であんなことになるマミ先輩。彼女の魔法少女への仕事観は「魔女からみんなを守る」という。
「守る」というのがポイントで、みんなに何かを「与える」ではない。つまり、姐さん肌なわけなんだけど、これ実は「自己愛」の裏返しとおれは見る。多分、あの作品に出て来る魔法少女5人のうち、もっとも幸福だったのは彼女だろう。彼女が他の魔法少女と違うのは、「他者」が存在しないこと。

さて、彼女。
私は闘っている、私はみんなを守っている、私は人にない能力を持っている、私はみんなから憧れられている、私はキレイだしおっぱい大きいし(ちなみにおれは「オッパイ」とカタカナで書くのが大嫌い)…でも辛いこともあるのよ…、という自覚を最後まで持ってた。しかもあんなことになったのは一瞬なので、あの寸前まで彼女は自己陶酔したままだったはず。

実は彼女が一番「自分のため」に魔法を使っていた存在だろうと思う。このタイプ、いますね。高学歴の「デキる女」タイプのヤツとかに。大手マスコミとか教育職とかに。とにかく、彼女「憧れてほしい」のだ。自分をリスペクトして欲しくてたまらないタイプなんだ。

つまり彼女、魔法少女という存在を「憧れられる存在」として捉えていた。彼女は、凡庸な意味での「アイドル」に他ならない。彼女は魅力を過不足無く発揮する存在として魔法少女を選択し、華麗に戦い、そして「守る」という「美少女戦士」であった。万能観によって支えられていた彼女は、不意打ちで最後を迎える。

厳密に言えば彼女は「夢と希望を与える魔法少女」ではなく、「美少女戦士」なんだろうと思う。このあたりはアニメ制作者側の「魔法少女もの」から「美少女戦士もの」へのアニメ史のトレンドへの相対化、批評とみることもできよう。やぶにらみで申し訳ないが、日本のアニメは「魔法少女」ものから「美少女戦士」がトレンドとなった。魔法少女と美少女戦士の違いは、「死」のおかれかただ。魔法少女は正体がわかると「社会的に」抹殺されるが、美少女戦士は普通に抹殺される。ところが、美少女戦士は死なない。死に一番近い存在でありながら、死ぬことはなかった。

マミの最期というのが作品上で非常なインパクトをもって迎えられたことはわかるのだが、この最期は製作者側の「美少女戦士」ものへの強烈なレスポンスとおれは思う。どんだけ陶酔したところで、死ぬときは死ぬ。戦士ってのはそういうものだ。