おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●新美南吉はブルースである(2017年4月6日)

以前、『ごんぎつね』を読んだ小学生が、「悪いことをしたんだからごんは撃たれても仕方がない」みたいなことを書いてきてショックだった、という国語の先生の話がネットにあったのを覚えているんだけれど、おれに言わせれば、そういう解釈ができてしまうところが新美南吉の凄いとこであり、魅力ではないかと思うのです。何といったらいいのか…徹底したリアリズムではないし、アンチロマネスクではないんだけれど、少なくとも「理想論に逃げない」太さがあるんだよな。

たとえば、昨日書いた『手袋を買いに』。あの作品も「キツネとわかっていても手袋を売ってくれた帽子屋の優しさ」っていう解釈がいわゆる文部科学省的な指導法なんだけれども、ちゃんと読んでみると、キツネの手を目撃した帽子屋は「先にお金を払ってください」と言って白銅貨が本物であることを確認するんだね。

ところで、この時の「指先に2枚の白銅貨を乗せて音を鳴らす」描写が小学校時代に読んで以来ずっと印象的で、子供に授業で教える時に10円玉で実演する。ほんとうに澄んだ音がするので驚く。みなさんもクソ暇だったらやってみよう。閑話休題

「白銅貨が本物かどうかを確認する」これって、「人間という生き物は、金さえ払えばキツネにだって手袋を売る」という解釈も成り立つ。だからこそ、「僕、人間なんてちっとも怖かないや」っていう子ギツネへのラストの母ギツネの「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」っていう謎のリフレインのセリフが効いてくる。『おじいさんのランプ』もそう。あのランプ屋のじいさんも、村に電気が導入されることを阻止するために妨害工作に走ったりしてる。

つまり、新美南吉の作品というのは決して人間賛歌だけではないし、「夢」や「希望」や「優しさ」だけを説く作家では決してない。「現実」といういかんともし難いものを肯定して、そこにある光も影もそのまま描く、というような、大きな言い方をすれば立川談志の「業の肯定」に近いフィーリングがあるんだよなあ。

で、談志を考えるときに志ん朝を考えてしまうように、新美南吉を考えると、同時代の宮沢賢治を考えてしまうんだね。二人は面識はなかったそうだが、新美南吉宮沢賢治の作品が好きだったという話。もうね、この二人のコントラストが面白くておれが今大学4年生だったら卒論のテーマにしたいくらいだ。

宮沢賢治は世界観や宇宙観や思想というものがあって、それを寓話化したクオリティが異常に高いんだが、新美南吉ってそういうものがほとんどない。「よき生き方」もなければ「滅私奉公の思想」もなく、ただただ目の前の現象というものを描いて、突き放す。

この突き放しっぷりが、おれの中ではブルースを聴いているときの感覚に非常に似ていて好きで、「新美南吉=ブルース」説を唱えているんだけれど、おれの文学的感性が文章にするには足りない。誰かと酒でものみながら話したい。今のところトモヤしか相手してくれない。もういいんだ、おれなんて…

ということで、「おれがブルースを感じる新美南吉ベスト3」

1位 でんでん虫の悲しみ
2位 売られていった靴
3位 ツイテ イッタ テフテフ

『ごんぎつね』『手袋を買いに』は、ストーンズで言うところの『サティスファクション』とか『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』みたいなものなので、大人の皆様、改めて青空文庫でこの辺を読んでみたら如何でしょうか。ブルースに合うよ。酒に合うよ。ストーンズだったら『レット・イット・ブリード』が合うし、RCだったら『ブルー』に合うよ。(2017年4月6日)

 

新美南吉童話集 (岩波文庫)

新美南吉童話集 (岩波文庫)

  • 作者:新美 南吉
  • 発売日: 1996/07/16
  • メディア: 文庫