おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●南野陽子を聴いていて、ふと国語教育について考えた(2015年3月15日)

「昭和アイドル春ものソングランキング」を考えていて、おれの好きな南野陽子の名曲『はいからさんが通る』を思い出した。

 


「はいからさんが通る」南野陽子

そして、国語、つまり日本語を教えている立場としてちょっと考えたことがあるのです。

この歌の非常に綺麗なサビのところの歌詞、

 

凛々しく恋してゆきたいんです 私 
傷つくことに弱虫なんて 乙女がすたるもの

 

これ、「ゆとり教育」という暗黒時代を経た今となって考えてみると、非常に高度な日本語というかですね、非常に文語的だとは思いませんか。「すたるもの(ハート)」ってナンノちゃんがキュートなポーズで歌ってるけど、「◯◯がすたる」って今日び通じるのかね?「面目が立たない」「恥になる」ってな意味だけども、少なくとも17、8の女の子が「すたる」って言葉を発する瞬間ってあるんだろうか。

まあ、この曲がリリースされた当時だって「すたる」なんて言葉を若い女の子が発していたとは思えないんだけども、送り手側も「まあ、『男がすたる』なんてセリフもあるからわかるだろう」という無意識の了解があったと思うのです。当時ニッポン放送などで聞いていた小学生のおれも「乙女がすたる」という意味を辞書的にはわからなくても、「傷つくことに弱虫なんて」という文脈から想像して、「何か強がっている感じなんだろうな」というくらいは感じることができたし、実際おれもなんらかの形でそういう「大人のセリフ」を聴いていたんだろうと思い起こすワケです。

今、小学生の受験国語という非常に面倒な科目を担当していて思うのは、国語力の低下というのは、この「乙女がすたる」というような言葉を聴いて、なんとなくニュアンスを理解できるかどうかの力の低下だろうと痛感するワケです。

これはおれが国語的センスがあったという話ではなく(実際、おれは国語が苦手であった)、今の子供らが生きている世界に「ここでやらなきゃ男がすたる」みたいな、大人っぽい言い回しというものが極めて少ないことに起因しているんじゃないかと思うのです。

原因としては、

①大人との会話が少ない 
②大人が子供に合わせすぎている 
③テレビやメディア全般が「わかりやすさ」を重視しすぎている

…などが考えられるのだけれど、①と②というのはこれは昔から保護者会で「国語力を上げるには本を読むより会話です」と言っている。大体が、親がロクに本も読まねえ生活してるのに、子供に読ませようなんていう都合のいい話があるかい。読むなら親も読め、と言い切っている。それで議論できるくらいにならなかったら子供の国語力なんぞ上がるか!

アイドルソングからの話だからカルチャーの問題である③を考えてみると、おれがガキの頃というのはアニメやマンガが子供向けだからこそ「大人っぽかった」気がするのだ。子供にとっての「カッコイイ大人」あるいは「成熟」の形というものを見せていた気がする。

自分にとってはそれは『ガンバの冒険』のイカサマであり、『スペースコブラ』であり『あしたのジョー2』であり…早い話が出崎アニメだったし、『全員集合』のパロディコントで「西部劇」や「ヤクザ映画」や「時代劇」というものの枠組みを教養として知ったと断言できる。そういう雑な「教養」のようなものを汲み取る契機が今は少ないのではないかと思う。

「乙女がすたる」なんて言い回しも、そういう「教養」が広く流通していた時代だったからこその言い回しだったんじゃないかと思う(あとは『はいからさんが通る』という大正ロマンをモチーフにした作品の主題歌だった、ということもあるのだろうが)。

少なくとも、多少他のガキよりはマセていたもの、中学受験など全く考えていない大宮駅前の下駄屋のセガレで、小学生のガキがその言い回しを「なんとなく」理解できていたという事実は、一考に値するんではないかと小学生に国語を教え終わった夜に思うのであります。(2015年3月15日)

 

【2020年6月の追記】 

南野陽子最強説」は一貫して変わらないのだが、雀荘で麻雀打ってるとスタッフのお姉ちゃんが南野陽子『吐息でネット』を流してくれるのがニクい。