おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●雀鬼・桜井章一を考える。(2018年2月13日)

アベマの麻雀チャンネルでRTDとか見ていて思うのだが、「スーパーデジタル」小林剛の麻雀と「自己啓発オカルト麻雀」桜井章一の麻雀って巡り巡って近いのではないかしら。誰に向けて書いてるのかね。

 

 

「20年間無敗」だの「治外法権麻雀」だのいろいろアレな桜井章一を開祖とする雀鬼流は、「第一打字牌禁止」とか「ドラはテンパイまで捨てない」とか「1秒以内で切る」とかいろいろな制約を設けて「信者」の皆さんがひたすらに「鬼打ち」することで「人間性を養う」という明らかにアレな感じの団体だったのだが(実質的には解散しているようで)、その打ち方をよくよく考えてみると、もっとも効率よくもっとも高い打点を目指しギリギリまで戦う、という極めて真っ当な考え方で、最終的な着地点が精神論になってしまうから誤解やら失笑を買うんであって、その戦術論としては決して間違ったものではないのではないか、とおれは思っている。

ただ、池袋の雀荘に明らかに雀鬼流の打ち方をする小汚ねえかっこした常連のオッサンがいて極めてウザいので、あまり大声では言いたくないが、おれも字牌から切らないし、ドラもギリギリまで離さないし、なるべくオリないことをモットーにしていて、実はちょっとだけ影響を受けている…まあ、成績はともかく(笑)

麻雀という極めて流動的で自由度の高い競技に「制約」や「規範」を持って臨む、ある種の「システム」であり勝負論的なタームでいう「フォーム」の確立だとすれば、阿佐田哲也以降の「運のやりとり」「ツキの流れ」を重視する今のベテラン雀士よりも、システマティックに打っていく昨今の「デジタル雀士」に近い気がする。ただ、もう一度書くが、着地点が宗教がかった精神論になっちゃうんだよなあ。

とはいえ、字牌を切らない根拠は「他の人に失礼だから」だったり、「一人勝ち状態を作らない」とか、麻雀が対人ゲームであって、一人では出来ない競技なのだということを示唆するような制約があるあたり、片山先生のグッドプレイヤー憲章にも通じている気もする(実際片山先生は雀鬼会にいたことあるし)。

20年間無敗だの超能力じみたギミックや、イカサマ技術の異常な高さを披露したり、「運を引き寄せる技術」だの胡散臭い発言が多すぎるあまり桜井章一は「詐欺師」「宗教ごっこ」みたいに言われるし、彼自身におれは魅力は感じないのだが、それはそれとして、戦術論的には見るものがあるとおれは思うのだがどうだろう?

って、だから誰に問いかけているんだと。(2018年2月13日)

 

【2020年6月の追記】
桜井章一雀鬼流については色々と考えている。これは麻雀に限らず「思想」というものの持つある性質に関する何かだ。