おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●競輪と自然(2012年9月5日)

おれは競輪が好きなのだけど、前にも書いたことがありますが、おれが競輪が好きな大きな理由の一つに「競輪場のコンクリート感が好き」ってのがある。
そもそもおれは街育ちのせいか、京浜工業地帯とか、磯子のコンビナートとか、船橋のイケアのあたりとか葛西臨海公園とかの索莫としつつも血の通った人工的な風景が好きで、同じ趣を競輪場に感じるのですね。

で、公営競技の売上ランキングをみると、競馬>競艇>競輪>オートレース、の順になっている。

たとえば競馬の大井のトゥインクルレースの趣は素晴らしく、夜空の元に照らし出されたダートの上を馬が走っていく美しい姿を見ながらのビールは最高のビアガーデンだなぁ、と思うことに異論はない。当たらないけど。

競艇は戸田で1回しかやったことないが、水面が美しい。今村昌平監督の『復讐するは我にあり』で描かれる、緒形拳清川虹子浜名湖競艇で遊ぶあの印象的なシーンにも使われた、水しぶきの美しさ。競技としてはおれはイマイチだけど。

さて、ここで考えてみる。
この売上ランキングは「ある要素」と比例していることにお気づきだろうか…ってまぁおれの中でしか確立されてないのを言ってもしょうがないが…ちょっと想像してほしい。あなたが彼女(ここでは女性に限定します)を誘えるのはどこまでか?と思った時、無意識に考慮している要素があると思いませんか。
それは「自然」の介在の度合いです。

競馬がカリナなんかをキャラクターにしてレジャーとして売れるのは、馬、芝、ダートといった目に見える「自然」の要素が多いからだ、とおれは思うのです。つまり、バクチというものを避けても楽しめる要素があるのです。馬、夜空、芝を見てるだけでもキレイじゃないか。

競艇は競馬よりも濃度は薄いけど、何といっても「水面」という自然がある。とはいえ、競艇カップルで行くってのは想像がいまいちしずらくて、一番当たりやすいからだというのが売上に貢献してるんだろうが、競艇と競輪だったら、風景の美しさで競艇の方が女性を誘いやすいのではないか、と思う。「水しぶきがキレイだよね」かなんか言ってりゃなんとかなりそう(笑)

競輪をとばしてオートレース。オートの場合、ほぼ機械任せなので自然の度合いが一番低いのです。エンジン音がいい!とかはあるが、オートのバイクはバイクのもつ魅力である機能美とも離れた専門的なもので、審美的な観点でバクチとは切り離すことができない。だからオートは男前なレーサーや美少女レーサーを推してくる。そうなると、完全に個人的趣味になるし、それは翻ってバクチ濃度を高めてしまう(だからホントの利益至上主義のギャンブラーはオートをやるとおれは思っている)。

そこでわが競輪です。
競輪は風景にはまったく自然の要素がない。だけど、その「自然」要素がすべて選手と言う人間に集約されているのです。競輪の説明をしてたら面倒だが、選手のフィジカル能力だけでなく、選手同士の絆だとか、かけひき、性格、しがらみ…といったものすべてがレースに反映される競技で、客もまたその自然の一部となって「おれがこの選手の立場ならこう走る」とか「そこでカマシちゃうところがオメーの弱さだ!」とか考える。
馬でなく人間が走る競技だからこそ、人間を「自然」とする。馬の気持ちという不確定要素、水面という不確定要素、そういう不確定要素があるからバクチになるのだが、それを「人間」という大自然の不確定要素に集約している。

本来のレジャー論に戻せば、「レジャーとしての競輪」は風景に自然はない代わりに「人間」という自然の営みがそこにあるのだ、と考えることができるか否か、という部分が通用するかということになる。イヤな言い方になるけど、かなり知的かつ文系的思考が必要になるのかな…。

そうなると、競輪というのは「自然」と「人間」を切り離してみる人には「八百長」と映るのかもしれない。ただ、人間というものを巨大な「自然」と見る向きには非常に楽しめる競技だとおれは思う。そういった意味では、競輪ほど「自然」を感じるものもないと思う。

あと、競輪場にいる人生の先輩たちが、ナショジオ的に大自然なんだよな…。(2012年9月5日)
 
【2020年6月の追記】
コロナ禍で競輪だけ売り上げの落ち方が大きいそうだ。本場にいる常連のみなさんが以下に支えているかがよくわかる。