おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●大宮(2013年12月18日)

原武史『レッドアローとスターハウス』という西武沿線の団地文化の本から、ちょっと自分のことを書いてみる。

昨日大宮競輪場行って、ついでに師走の大宮の街(世界中の街の中で一番好きだ…)をフラフラと歩いておりましたら、やっぱりいい街だなと思いつつも、時の流れってのは抗しがたくて、いろいろ変わっていた。

浦和に引っ越す10年くらい前、駅前の企業努力のない商店街の連中が代替わりで(それは大抵おれの世代なのだが)テナントにして古着屋がガンガンできていた。それはひとえに大宮ロフトの若者集客があったからで、ロフトの中にジュンク堂が出来たりいろいろ文化的に便利であったが、その後ロフトが傾き始めて、この春に閉店してしまったら、結局パチンコ屋がビルごと買って「総合アミューズメント」な感じにするらしい。

愛着があるからこそズバっと言うけども、大宮は「呑む・打つ・買う」の大人の街だった。駅前の繁華街「南銀座」、ソープ街「北銀座」、大宮競輪場、パチンコ屋に雀荘(オヤジが入り浸っていてヤクザと揉めて血まみれで帰って来たことがある)、西武と中央デパートという大きな百貨店と個人商店がもつれ合いながら生きていた街。

そこの駅前の商店街で育ったもんだから、幼なじみの多くは個人商店の子で、遊び場はデパートの階段のとことか、商店街の道ばたとかそういう感じ。ゲーセンなんてのは選択肢の一つでしかなく、別段「悪所」という印象もない。商売のジャマになるから家の中で遊ぶことはあまりしない…が、のちにファミコンの時代が来てインドア化が進んだけれど、どいつもこいつも店の2階とか、倉庫代わりに借りてるアパートとか、とにかくみんな家が狭かった。
いわゆるマイホーム的な一戸建てに住んでるヤツはハッキリ言っていなかった。後に20歳過ぎくらいになったころ親が少し離れた所に家を建てる、というパターンだった。

大宮は「大人の街」と書いたけれど、商売の街なので大人がとにかく強かった。怖い、ってのもそうだったが、それ以上に「大人の事情」がとにかく子供に降り掛かる街だった。上記のような家の狭さもそうだし、水商売系の家なんかの子とは夜まで遊んでいた(遊ばざるをえなかった)。アカラサマに親がヤのつく自由業のヤツもいたし、ホステスの娘だったリカちゃんは色っぽかった。

ファミコンの時代になった時、未だに印象に残っているのは、カセットを多く持っていたのは金持ちの家ではなかったことだ。片親で子供を一人で置いておかないといけない家の親が子供に買い与えていたケースが多かった。カセットがいっぱいある、ということはイコール「何か事情のある家」であった。逆に大宮の商店の子などは家がカネにうるさいのでさほど持っていなかったように思う。

郊外的な文化、ってものを一括りにすれば、一戸建ての持ち家であり、車があり、週末はショッピングであり外食であり…というイメージなのだが、おれの育った大宮駅前はそれらがまったくなかった。持ち家なんかジャマだし、車なんかはいらないし、買い物なんかはブラブラしてりゃできるし、メシはバラバラに喰う…これも京浜東北線の駅前という沿線の生活スタイルの一つなのではないかと思う。

競輪開催日はロクでもない連中がゾロゾロと歩き近所のラーメン屋で暴れ、南銀で映画見て、『上高地』でヤクザが話をしてる横で夜中にビリヤードやって、新星堂でCD買って、すずらん通りでパチンコやって…という世界だから、『サイタマノラッパー』や山田うどんのようなロードサイド感の風景はおれにはなかったし、京浜東北線沿線の浦和や川口なんかの駅前の人間にもそれはないだろうと思う。
文化や人を育む環境というのはなかなか複雑で隅に置けないもんだと思う。

この「駅前」とは、埼玉の京浜東北線沿線では「産業道路」と「国道17号」よりも内側なんだと気づき、今回の実家の転居で産業道路の外側に引っ越して初めて「埼玉的ロードサイド」の風景に触れ、これが『サイタマノラッパー』が描く風景であり、山田うどんの象徴する何かなのだと思いながら、歩いて3分のサイゼリヤが便利過ぎてたまらん。(2013年12月18日)