おれにゴタクを並べさせる世の中は間違っている

いつ死ぬかわからないので過去に書いたモロモロの文章をまとめてみました。

●山口瞳『草競馬流浪記』(2014年11月16日)

 

草競馬流浪記 (新潮文庫)

草競馬流浪記 (新潮文庫)

 

 

何度となく書いているのだけれど、この本はおれの中でバイブル的に好きな作品であります。昭和の文壇の香りがする最後の世代の作家である山口瞳が、全国の地方競馬場をすべて巡るといういわゆる「旅打ち」の随筆です。

あれ、おまいは競輪じゃないのかい?と言われるかもしれないんだけれど、この作品は「旅打ち文学」としても楽しめるのだけれども、自分の場合ちょっと違うのです(旅打ちモノだと阿佐田哲也の諸作品、短編では『ズボンで着陸』『鶴の遠征』などが好きです)。

この作品の魅力の一つは、「80年代日本の空気感」が若者文化(サブカルチャー?)とは別の文脈で伝わってくるところなのですよ。

これが書かれた頃というのは、東北新幹線が開通したころで、開通前の試乗に招待された山口瞳がそのまま山形の上山競馬に行く回がある。つまり、その当時は「地方」がスピードによって変貌して行く過渡期であって、そういう地方に残されている競馬場がもはや過去のモノになりつつあったという背景がある。
競馬ファン山口瞳が「判官贔屓」的に地方競馬場を巡る旅を始めたのは、80年代というスピード感と華の時代を迎えて「失われていく『地方』」への某かの予感にせっつかれているのが全編から伝わって来る。
昨今の立ち飲み居酒屋ブームのような「OLDNEW」ではなくて、本当に失われつつある風景を巡る旅なのであります。

あと、これは仮説なんだが、山口瞳サントリーの文化人で、同じサントリー出身の作家として開高健がいることは大きいと思う。開高健が「遠心力で書く」と言いながらベトナム戦記を書き、世界を釣りで旅していることと、山口瞳が国内旅行にこだわり、地方競馬というミクロな視線に向かったことは果たして偶然だろうか。閑話休題

さらにもう一つ。80年代というと、おれのようなサブカル渡世の人間はどうしてもアイドル歌謡だのロックだのといったポップカルチャーから見渡すことをして来たワケなんだけど、上記の「地方」の風景とも通じる話なのだが、「文壇の大御所」としての山口瞳という人の持つ求心力…早い話がその当時の「作家」というもののステータスの高さを感じるのです。

そもそも、開通する新幹線の試乗に作家が招かれてるという事実。作家先生にまず文章で著してもらう、ということがまだまだ影響力があった時代なのかなと考えてしまう(実際そうだったんだろう)。

しかも「旅打ち」と言うにはあまりに手厚い歓待ぶり。担当編集者が2人も付き添い、その街の一流旅館に泊まり、競馬場では責任者さん直々に挨拶をされて特観席での観戦。夜は地元の名士たちと芸者を呼んで酒を飲み、払い戻しで街の骨董品屋でタンスを買う…という。いかに、「作家先生」というものが尊敬されていたか。「エスタブリッシュな作家先生が田舎の競馬場に来る」というだけで、かなりな事件だったのだ。

「作家先生」としてのそこらステータスを、「草競馬」を「流浪」している山口瞳が隠しきれずに、照れてるような、言いたいような…って感じで結局書いちゃうとこが何だか可愛いというか、憎めない。途中でガチのギャンブラーである阿佐田哲也が参戦するんだが、正直な所、山口瞳阿佐田哲也は合わなかったろうなあ…と思う。

ということで、この作品は入手困難なんだけども、「失われゆく風景」としての「草競馬」を追いかける作品が、今読むと「文壇というステータス」という「失われた風景」を見る作品にもなっているという…そんなヒネクレた見方しなくても、旅の情緒といったものは見事に伝わって来て、そしてそれがどう言う訳か秋から冬の田舎の空気感で、この季節に読むと旅に出たくなるのでございます。(2014年11月16日)

 

【2020年6月追記】コロナ禍で外出ができなかったこの時期にまた読み直してしまった。景気とか日本人の意識の変化で最近は国内地方都市の街ブラ番組などが増えているが、80年代の日本でミクロな旅を実践していたのは考えてみるとすごいことだ。